2023-07-16

天然

小学生のころ、国語の授業で書いた作文がなんらかのコンクールで受賞した。地元の商店街のアーケードが老朽化で取り壊されることになり、そこに巣を作っていたツバメはどうなるんだろう、といった内容のいかにも大人ウケしそうなものだったが、当時の自分としてはけっこうまじめな問題意識を持っていたような気がする。街の大きなホールで、大勢に向けて発表もした。

その成功体験を持って翌年に書いた作文は、再度の受賞を狙った、それはもうとてもあざといあざとさの権化みたいな内容だった。たしか、兄弟関係についてだったか。それは箸にも棒にもかからない出来で、肥大化した自意識がやましさのブーメランになって自意識に突き刺さったのでした。

夏になると薄着になり、薄着になると腕周りがさびしく感じる。左腕は時計を付ければいいんだけれど、右腕の空白はいかんともしがたい。なにかしらのアクセサリーに憧れをずっと持って生きてきたが、自分でアクセサリーを買うことができない。『自分で選んだアクセサリー』はあまりにも自意識を表しすぎているように感じる。あの作文のときの呪いか。理想は知り合いの職人がなにかの記念日がてらにでも手作りの品をプレゼントしてくれることだ。そこに自分の選択はない。とても自然。

自然であるということは最高の言い訳だ。家族が勝手に応募して、という言い訳で参加するオーディション。描いたイラストを友人がTwitterに「これすごい笑」とアップして、バズる。
そして自然であるということは最高の付加価値だ。養殖よりも天然のマグロ。冷蔵庫のありもので作ったと言ってめちゃくちゃうまいパスタ。同窓会で再開した同級生と結婚した姉。
自然であることが最高なんだから、できるだけ自然体でありたいものだが、そう思えば思うほど不自然になる。回し車で必死に走っているハムスターはとても自然から遠い存在だ。

こんなことを考えていても右腕の空白が埋まることはない。早急にまわりの友人の誰かにアクセサリー造りの趣味を始めてもらうか、アクセサリー職人の友人を作るしかない。それも、なるべく自然に。