2024-01-14

日記

去年末の週報に、今年も週報を継続するぞと書いたものの、先週書き忘れていました。
2024年の新しい試みとして、日記を書くこと、その日記の最後に短歌を添えることを設定しました。今のところ、3日から継続中です。

最近まわりの人にもよく言うんですが、新しい習慣を身につけたい場合、3日に1回とかのペースよりも、どんなにしょぼい成果でも毎日やることが大事だと感じています。というか読んだ本にそう書いてあった。人間の生活の最小サイクルが起床〜睡眠である以上、そのサイクルに習慣を挟み込むことが一番よい、数日おきの設定だと「今日はいいや」という言い訳ができてしまうからですね。
日記を書くことでなにか人生にプラスになるとはあんまり思っていないです。古のmixi全盛期に日記文化が流行っていたと思いますが、結局みんな途中で飽きちゃったしね。目に見えてメリットがあれば継続してるはず。運動とかは成果が定量化できるけど、文章書きはその辺が難しいのもあるのかしら。PV数を気にしすぎても辛い。
じゃあなんで日記を書くのか?よくわからないけど、書いたほうがいいと思ったから、としか言えないんだよなあ。なんとか1年継続してみて、意味があったかどうかを振り返りたいですね。

日記ですが「しずかなインターネット」で書いています。気軽に文章を書くのに、とても優れたサービスなのでおすすめです。

https://sizu.me/

ふりかけの習慣

新しい習慣をはじめる以上に、今現在の習慣を見直すことも重要だ。

図書館内に新しくできたカフェでカレーを頼んだとき、付け合せのサラダにドレッシングがかかっていなかった。周りを見渡してもドレッシングの容器がない。そういう文化かな、と思い仕方なくそのまま食べるものの、やはり少し味気ない気がする。ドレッシングがないと物足りなく感じるように、人生を欠けて舌を調教してきた結果。過去に、白米のごはんをおかず無しで食べる友人を見て、信じられないと感じたこともある。素材そのままの味をお楽しみくださいと言われても、違和感が拭えないことは多い。
とはいえ、コーヒーを注文するときのお砂糖とミルクは、という定形質問にはいつもノーを返している。コーヒーはそのまま飲みたい。でも砂糖を入れないとダメな知り合いはたくさんいる。ただの白いTシャツではなんとなく物足りない。
これまでの人生で、今までもそうしてきたから、ぐらいの合理的じゃない習慣は認識しきれないぐらい多い。それに気づく機会があれば、実験的にでもやめてみるのがいい。のりたまを捨てよ、白米を食べよう。やっぱり必要だな、と思えば再開すればよいだけだし。
4年前、意を決してそれまで持っていた靴下を全部捨てて、ベーシックな白い靴下を履くようにしました。学生時代からなんとなくで履いていたアンクルソックスとか柄入りのものに違和感を感じたから。そういうものはまだまだある。そもそも白い靴下も疑う必要もある。

この文章を書いていて、いつもノータイムでラーメンに胡椒をかけていた父親のことを、ふと思い出した。あれ、本当にやめてほしかったんだよな。