2024-01-21

コブクロ

セブンイレブンに昼食を買いに行ったら、酸辣湯味のカップヌードルがあったので思わず買ってしまった。酸辣湯、好きです。*1 ちょっと凝ったカップラーメンは、なんか凝ってる感じの調味料が入った小袋が付いていますが、この小袋に苦手意識がある。絶対に、内容物をすべて出し切ることができないからです。オイル系のやつだとなおさらで、切り口の部分に残った凝ってる感じの調味料が気になって、小袋を少しスープに浸してなんとかしようとしてしまう。ただ単に貧乏性なだけなんですが、心のどこかで「作者が想定していた味」に少しでも近づきたいという気持ちもある。

ただ、開発者もさすがにバカではないはずで、消費者が凝ってる感じの調味料を全量出しきれない前提で味の調整をしているに違いない。となると、世間一般大多数の人と同じぐらいの意識で小袋を開けないと、作者が想定していた味に近づくことができない。限り無く近づくことはできるけど、完全一致は到底望めない。亀を追いかけるアキレスみたい。

というようなことが、何かを表現するときにも言えるな、と思いました。自分が伝えたいことの100%を正確に伝えることは、むずかしい。7割伝われば上々、ぐらいのテンションで考えるほうが精神衛生上もよい。その7割で十全に近い情報とすることに傾注する。選択と集中

その一方で、小袋の中身をすべて出すがごとく、人は必要以上に情報を読み取ろうとする性質もある。考察厨とか呼ばれるような人。作者の気持ちを答えなさい、というテストに作者自体が答えられない。さまざまな視点をもって考えることは楽しいけど、行き過ぎればそれはただのノイズになる。

想定しているものを、想定している通りに伝えることは難しい。そう考えると、ペヤングのソースの袋は中身がツルッと出てくれるから、うれしい。

*1:残念ながらこのカップヌードルは好みの味ではなかった

2024-01-14

日記

去年末の週報に、今年も週報を継続するぞと書いたものの、先週書き忘れていました。
2024年の新しい試みとして、日記を書くこと、その日記の最後に短歌を添えることを設定しました。今のところ、3日から継続中です。

最近まわりの人にもよく言うんですが、新しい習慣を身につけたい場合、3日に1回とかのペースよりも、どんなにしょぼい成果でも毎日やることが大事だと感じています。というか読んだ本にそう書いてあった。人間の生活の最小サイクルが起床〜睡眠である以上、そのサイクルに習慣を挟み込むことが一番よい、数日おきの設定だと「今日はいいや」という言い訳ができてしまうからですね。
日記を書くことでなにか人生にプラスになるとはあんまり思っていないです。古のmixi全盛期に日記文化が流行っていたと思いますが、結局みんな途中で飽きちゃったしね。目に見えてメリットがあれば継続してるはず。運動とかは成果が定量化できるけど、文章書きはその辺が難しいのもあるのかしら。PV数を気にしすぎても辛い。
じゃあなんで日記を書くのか?よくわからないけど、書いたほうがいいと思ったから、としか言えないんだよなあ。なんとか1年継続してみて、意味があったかどうかを振り返りたいですね。

日記ですが「しずかなインターネット」で書いています。気軽に文章を書くのに、とても優れたサービスなのでおすすめです。

https://sizu.me/

ふりかけの習慣

新しい習慣をはじめる以上に、今現在の習慣を見直すことも重要だ。

図書館内に新しくできたカフェでカレーを頼んだとき、付け合せのサラダにドレッシングがかかっていなかった。周りを見渡してもドレッシングの容器がない。そういう文化かな、と思い仕方なくそのまま食べるものの、やはり少し味気ない気がする。ドレッシングがないと物足りなく感じるように、人生を欠けて舌を調教してきた結果。過去に、白米のごはんをおかず無しで食べる友人を見て、信じられないと感じたこともある。素材そのままの味をお楽しみくださいと言われても、違和感が拭えないことは多い。
とはいえ、コーヒーを注文するときのお砂糖とミルクは、という定形質問にはいつもノーを返している。コーヒーはそのまま飲みたい。でも砂糖を入れないとダメな知り合いはたくさんいる。ただの白いTシャツではなんとなく物足りない。
これまでの人生で、今までもそうしてきたから、ぐらいの合理的じゃない習慣は認識しきれないぐらい多い。それに気づく機会があれば、実験的にでもやめてみるのがいい。のりたまを捨てよ、白米を食べよう。やっぱり必要だな、と思えば再開すればよいだけだし。
4年前、意を決してそれまで持っていた靴下を全部捨てて、ベーシックな白い靴下を履くようにしました。学生時代からなんとなくで履いていたアンクルソックスとか柄入りのものに違和感を感じたから。そういうものはまだまだある。そもそも白い靴下も疑う必要もある。

この文章を書いていて、いつもノータイムでラーメンに胡椒をかけていた父親のことを、ふと思い出した。あれ、本当にやめてほしかったんだよな。

2023-12-31

制作したボードゲームクラウドファンディング期間はさすがに週報を書いている余裕がありませんでした。一回途切れた習慣を引き戻すのは大きめのエネルギーが必要、人は易きに流れるものだから、継続の慣性を信じて粛々と続けるのがけっきょく一番ということですね。

マメ科の植物は空気中の窒素を栄養に変える窒素固定というメカニズムを持っていますが、文章を書くということは、これに少しだけ似ていると思います。まわりに当たり前にあるけど目に見えないさまざな事象を、人間が読める形に固定する作業。昔からこの変換プロセスが苦手中の苦手でしたが、週報を書く習慣を経て、多少はマシになったかも。来年も継続したい所存。

傾く

「正義の反対は、また別の正義」という論がだいぶ普及したように感じます。それは本当に正しいことだし、単純な悪はないという世界のほうが、勧善懲悪よりは進歩していると思う。 よっぽど天邪鬼じゃない限り、人間は正解が好きです。昔の価値観では正義側に立つことが正解だったのが、今の価値観ではどちらの正義に立つことも正解じゃなくなってしまいました。かといって、どちらにも属さない中立的な立場も、また正解にはならない。(前の週法にも書いたんですが、純粋な中立は強者側に寄ってしまうため)

理想は、両方の正義をちゃんと理解した上で、どちらかを選び取る意志なんでしょう。そして相手を攻撃しないこと。そして頑固にならず、いつでも意見を変えれるような柔軟性を持つこと。君子豹変す。そのためには、いつでも戻ってこれるセーブポイントのような基準点を持つこと。フォルダごとコピーしてバックアップしておけば、中身をどんなに修正してもいつでも戻れる安心感というか。中立の立場は心地よいけども、あえて傾く勇気を持ちたいですね。

「傾く」は「かぶく」とも読みます。

スネオヘアー

帽子をよく被る。良き先祖を持っているため、髪質が元気すぎて寝グセがすごいので、何かと便利だから。普段ニットキャップばっかりなので、たまにツバのあるキャップを被ったとき、油断してるとコツンとツバをぶつけてしまう。スネ夫はあの髪型だけど、慣れていればそういうミスは減るんだと思う。

良いお年を。

2023-10-29

カプセルホテル

東京に行く用事があり、カプセルホテルに宿泊した。30年ぶりぐらい、2度目。だから、その時の記憶はほとんどない。睡眠に特化した個室が詰め込まれて並ぶ様子はチープなSFみたいで、ずっと泊まってみたかったものの、なかなかタイミングが無く、今回ようやくの再会です。
利用したホテルは、内装がナチュラル系だったから、SF感が足りなくてそこは残念。薄暗いフロアに整然と並んだ人間ひとりが横たわることができるサイズの個室に収まって、スマートフォンをいじりながらどこかの個室の人のいびきの低音を聞いていると、昔観た映画のワンシーンを思い出す。荒くれ者の男たちが、船倉に押し込められて、雑に寝ているシーン…。『パピヨン』か?
朝7時に、他人のアラームで起こされて、寝ぼけたまま向かったラウンジのスープバーのミネストローネの具が大きくて、とてもよかった。

モード

週報を夜に書くルールにしていたんですが、10月になってからは試験的に午前中に書いていることがある。(この文章は夜に書いている)
圧倒的に朝のほうが筆がスムーズ。寝る前ぐらいの時間、ゴチャゴチャした思考を整理する能力が低下しているのかしら。集中力とかの脳のリソースは有限と言うし、朝のしゃっきりとした時間を何に使うか意識的になったほうがよさそう、という有象無象の自己啓発書に書かれていそうな結論。

2023-10-22

観察

セブンイレブンに自転車を停め、ふと地面に目をやると、知らない虫がわらわらしていた。けっこう長く生きてきたけど、まだ知らない虫にこんな近所で遭遇できるのか、という地味な感動があった。いまさら新種というわけでもないだろうし、たぶん子供のころにも見かけているはずなのにね。

子供はものをよく見ているが、観察力があるかと言われると疑問だ。観察は客観的な視点が必要になるが、子供の見る力は主観に特化している。好きなもの、例えば電車だとかロボットだとかの細かい違いはよく気づくけど、興味がないものに対しての情報の切り捨ては徹底している。それでいて、ときにはしょうもない子供だましに容易に引っかかるのも、主観が先行しすぎる結果なんじゃないか。幼少時代にパチモンのおもちゃを掴まされた人は多いと思う。情報を先入観無しで受け取ることができるけど、解釈の段階で歪みまくる。

反面、大人になると、脳が効率よくサボろうとするのか、情報を受け取る段階でかなりのフィルターがかかっているように感じる。生きるのに必要ない情報を、自動的にシャットアウトして、エネルギー消費を抑える。代わりに観察力はアップして、客観的にものごとを見ることが得意になっていく。

サイゼリヤの間違い探しを、一生懸命に違いを探す子供と、メタ情報で解こうとする大人。レンズの種類が違うのか。最近のスマートフォンみたいに、いろいろな種類のレンズを持っていたいですね。

イカゲーム

洗練されすぎた作品には「制作者の顔が見えない」といった感想を抱くときがある。
イカゲームには、カーソルを端に持っていったときに、少しウェイトをおいてから逆サイドにワープする挙動がある。 そこに、制作者の顔が垣間見えた気がした。

2023-10-15

焙煎

コーヒーが好きでよく飲んでいる。よく飲んでいるわりにはコーヒーの味がよくわからない。コーヒーのことをもう少し知りたい。その結果として自分でコーヒー豆を焙煎してみようという考えに至った。

自家焙煎のお店とかに行くと、巨大で真っ黒なものものしいマシンが大体置いてある。特別な機械が必要なんだなあという印象が強いが、なんのことはない、どのご家庭にもある手鍋があればコーヒー豆の焙煎は可能だということを知った。Youtubeで。昔は文字情報の方がいいわい、動画なんてまだるっこしいわい、という考えだったが、動画には動画の良さがあることを認めざるを得ない。

生豆を煎ると薄皮(チャフというらしい)が舞うので、台所でやると掃除が大変そう。だから、秋晴れの気持ちのいい日に、カセットコンロを携えて家の裏で焙煎作業を行った。15分ぐらいひたすら鍋を振るので、ザッザッと音を出し続ける作業だ。近所のおばさんが何事かと顔を覗かせた。すいやせん、アッシ、豆を、コーヒー豆を煎っております、というニュアンスを伝えるためのぎこちない微笑を作った。おれが妖怪小豆洗いじゃなくてよかったね。

完成したコーヒー豆は、驚くほど普通にコーヒー豆だった。見た目も味も。友達にも飲んでもらったから、自分で苦労して作ったバイアスは無いはず。拍子抜けの感じもあるけど、本来、焙煎はこの程度の気軽な行為だったのだと思う。昔の人は、自家製でもっといろいろ作っていたはず。そういえば母も梅干しを毎年量産していたな。資本主義の構造の中で、離れ離れにされた手仕事に再会する。ボーイスカウト精神*1

最近はパックご飯のクオリティが上がりすぎてるし、何十年後か、家で炊飯する人はほぼいなくなると思う。その時に「あえて米を炊飯してみた」みたいな動画を見て、おこげに戸惑う人がいるのだろうと思った。*2

*1:ボーイスカウト経験者に出会うと戦友の気分になります

*2:その頃には動画も廃れていて脳に直接データを流し込んでそう

2023-10-08

意識外の失敗

なかなか進化しないものといえば傘と本とコップですが、Nヶ月ぶりN回目、お茶の入ったコップを倒しました。机の上と椅子の座面を襲う液体。Macをカバンに入れるときに不用意な肘がコップに当たり、テコの原理でいともたやすくコップは倒れるのでした。世の中のコップは、肘が当たらないことを前提にデザインされている。

「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉はすごくよくわかる、同様にちょっとテンションが下がるレベルのドジもだいたい忘れた頃にやってくる気がする。若いころに比べて、そういうドジをしないように気をつけて生きる知恵を身に着けたつもりなんだけどなあ。食器を片付けるときに無理にたくさん持たないようにしたり、ドアを閉めるときに無駄に勢いをつけないようにしたり。あ、あとボードゲームを遊ぶときは、飲み物を机の上に置かない。

忘れたころにやってくるなら、忘れないように定期的にリマインドするのが賢い。防災訓練なんてめんどくさいと思っていたけど、アクシデントが起こることを日常の延長線上にあらかじめ置いておくことは、いざというときに平常心を保つためには有意義ですよね。

言葉で言われたり動画を見るだけではなかなか他人事の感じから抜け出せないから、毎月1日とかに、わざと肘でコップを倒したりする日を設けることを提言します。

ここまで書いて、日常に起こりうるドジを体験できる施設が欲しいなと思いました。天ぷらの鍋を発火させたいし、飛び出してくる何かを車で轢きたい。