2023−07−30

いい名前

洗濯機が故障したのでメーカーに修理を依頼した。水曜日に担当者が来る予定だったが、いろいろあって来週に変更になってしまった。原因は先方の不手際なんだけど、しばらくはコインランドリーに通えばいいからあんまり怒ってはいない。とはいえ、改善はしてほしいとは思いメーカー窓口にメールを送ろうとして手が止まる。なんかクレーマーっぽい感じになりそうで、それはちょっと気分が悪い。こっちとしては次回気をつけてくれればそれでいいよの気持ちでも、担当者の方がその上司に叱責されるイメージが脳裏に浮かんでしまって、結局なにも連絡できなかった。「クレーマー」のタグが自分に少しでも触れようとするのがイヤだった。

「客だけど、別に怒ってるわけじゃなくて、改善をお願いしたい」という行為にもう少しキャッチーでポジティブな名前があればいいなと思う。

路上の落とし物を、もとの持ち主が少しでも気づきやすくなるようにと塀の上に置いたり電柱にぶら下げたりする行為を『善意のはやにえ』*1と表現した人がいてとても感心した。何気ない親切にすてきな名前があるとアクションが起こしやすくなる。この名前がもっと普及するといいんだけど。

忘れたい

脂っこいものを食べられない、体のどこかしらが常に悪いに並ぶ中年あるあるの三大巨頭といえば固有名詞のド忘れですが、ご多分に漏れず人の名前がすぐに出てこなくなっています。前に勤めていた会社の同僚の名前とかは忘れてもそこまで問題はないけども、知り合って間もない人の名前を、相手を目の前にして忘れるのはけっこう困る。

そういう状況でも絶対に忘れない名前があります。
昔、ファミコンに「くにおくん」というゲームがありました。正義の不良である「くにお」が他校の不良やヤクザとケンカをするというわりとバイオレンスな設定に反して、コミカルなキャラクターと表現で人気を博したゲームです。 *2 子供のころ、このゲームが好きすぎて登場するキャラクター全員の名前を暗記したのですが、いまだに忘れることができません。ゲーム中には苗字しか出てこないのに無駄にフルネームで覚えているというのも悲しい。
架空の世界の不良のフルネームよりも、目の前の人間の苗字の方が重要度の方がどう考えても高い。貴重な脳のスペースをさっさと明け渡してもらいたいんですが、10月にリメイク版*3が発売するのでたぶん買ってしまうし、また架空の世界の不良のフルネームを忘れられない。

*1:http://zeninohayanie.blogspot.com/

*2:ケンカ以外にもドッジボールやサッカーや運動会もやります

*3:https://www.kuniokun.jp/nekketsusp/

2023-07-23

カレーパン

財布をどこに置いたかすぐに忘れる。こういう悩みは世間に満ちていて、模範解答は「定位置を作る」というものだ。その教えに愚直に従って、ポーチに財布・カード入れ・鍵を必ず入れておくことにしている。外出する時はかならずそのポーチを持って出て、帰宅したら部屋のフックにかけておく。それでもたまに鍵をどこに置いたかわからなくなるけど、以前に比べて圧倒的に頻度は減った。*1

ただ、財布が入る程度のサイズの袋ではいろいろと不便がある。買い物に行ったり図書館に本を借りに行ったりする時は大きいカバンが必要となる。そういうとき、ポーチからカバンに財布等を移すことはしない。あとでどのカバンに入れたかを絶対に忘れるからだ。定位置の教え。

そういうわけで、カバンの中にポーチをそのまま入れる運用となるわけです。お金を入れる財布を入れるポーチを入れるカバン。あまり見られたくない画像ファイルを隠すためのフォルダ構造みたい。そんな状況がなんか間抜けで気に入っている。

小学生のころ、ALTでロシア出身の先生がいた影響か、教室後ろのロッカーの上にマトリョーシカが置いてあった。開けても開けても人形が出てくる舶来のおもちゃには、妙に惹かれる魅力があった。人間は、どんな理屈かわからないけど、本能的に入れ子構造が好きだと思う。やっぱり自分の小型の分身である子供が母から生まれるイメージなのか。複数のサイズの鍋がコンパクトに収まるキャンプグッズはみんな好きでしょう。

そんなことを考えながら、カレーを包んだパンを衣で包んで揚げたカレーパンをビニール袋で包装したものを入れたコンビニ袋を、お金を入れる財布を入れるポーチを入れるカバンに入れた。

ゲームポエム『蛙化』

うだるような暑さの夏の日を用意する。
エアコンがきいた涼しい部屋に複数のプレイヤーが避難してきたらゲームを開始する。
適用な方法でリモコン係を決める。
リモコン係は10秒ごとに1回、リモコンを操作し温度を上げる。
プレイヤーを惑わすために風量や風向きを変えてもよいが温度を下げてはいけない。
プレイヤーは、ここは外より暑いと感じたら部屋から出る。
そのあとに飲んだ水の味を詳細に記録する。

*1:さすがに鍵は困るのでGPSトラッカーをつけた

2023-07-16

天然

小学生のころ、国語の授業で書いた作文がなんらかのコンクールで受賞した。地元の商店街のアーケードが老朽化で取り壊されることになり、そこに巣を作っていたツバメはどうなるんだろう、といった内容のいかにも大人ウケしそうなものだったが、当時の自分としてはけっこうまじめな問題意識を持っていたような気がする。街の大きなホールで、大勢に向けて発表もした。

その成功体験を持って翌年に書いた作文は、再度の受賞を狙った、それはもうとてもあざといあざとさの権化みたいな内容だった。たしか、兄弟関係についてだったか。それは箸にも棒にもかからない出来で、肥大化した自意識がやましさのブーメランになって自意識に突き刺さったのでした。

夏になると薄着になり、薄着になると腕周りがさびしく感じる。左腕は時計を付ければいいんだけれど、右腕の空白はいかんともしがたい。なにかしらのアクセサリーに憧れをずっと持って生きてきたが、自分でアクセサリーを買うことができない。『自分で選んだアクセサリー』はあまりにも自意識を表しすぎているように感じる。あの作文のときの呪いか。理想は知り合いの職人がなにかの記念日がてらにでも手作りの品をプレゼントしてくれることだ。そこに自分の選択はない。とても自然。

自然であるということは最高の言い訳だ。家族が勝手に応募して、という言い訳で参加するオーディション。描いたイラストを友人がTwitterに「これすごい笑」とアップして、バズる。
そして自然であるということは最高の付加価値だ。養殖よりも天然のマグロ。冷蔵庫のありもので作ったと言ってめちゃくちゃうまいパスタ。同窓会で再開した同級生と結婚した姉。
自然であることが最高なんだから、できるだけ自然体でありたいものだが、そう思えば思うほど不自然になる。回し車で必死に走っているハムスターはとても自然から遠い存在だ。

こんなことを考えていても右腕の空白が埋まることはない。早急にまわりの友人の誰かにアクセサリー造りの趣味を始めてもらうか、アクセサリー職人の友人を作るしかない。それも、なるべく自然に。

2023-07-09

使い道のないポケット

メルカリで服を買うのが好きで、ちょくちょく検索をしては、手頃な値段で最低限のサイズと状態が問題なことを確認できたものを勢いで買う。いい意味でも悪い意味でも期待からズレたものが届くから、それもまた一興で楽しい。打率は五分五分といったところ。

先月ぐらいに買った、どちらかといえば期待以上だったシャツを木曜日に洗濯して日当たりのいい廊下に干していたら、裾の付近にポケットがひとつあることに気づいた。何回か着たはずなのにまったく察知できなかったぐらい控えめに、ご丁寧にボタン付きのフラップのあるタイプのポケット。
おお、こんなところにポケットが、とちょっとびっくりして、そのあとちょっと落ちついて、薄手の生地のシャツの裾のあたりのポケットって入れるものが特に無いじゃん、スマホでも入れようものならめちゃくちゃ型崩れしそうじゃん。という結論になった。使い道のないポケット。
このポケットの存在に気づいて、かえって愛着が湧いたのは不思議だ。実用性のディテールであるポケットがひっそりと主張せず、使われることもなく静かにたたずんでいることが、良いね、という気持ち。ちょっと歪んだ茶器を愛でる戦国武将みたいな。

人間関係において、はじめは真面目すぎて退屈な人だな、という印象だった人が、何度か会ったり話たりするうちに謎のこだわりや奇妙なクセを持っていることがわかると、急に親近感が湧くことがある。この人、絶対にWikipediaのことをWikiって略さず呼ぶな、みたいな。それはただのめんどくさい人かもしれない。その人なりのどこかに付いている謎ポケットを見つけたい。神は細部に宿る、人となりは謎ポケットに表れる。

とはいえ、あざといのはよくない。ポケットだらけのベストを着ても違和感が無いのはファッション上級者とアウトドア趣味の人だけだ。いかにも見てくれと言わんばかりのポケットは、キャラ付けである。ドラえもんぐらい万能なポケットなら話は別だけど。

2023上半期ふりかえり

2023年の1月から週報を書き始めて半年が経過したので、ふりかえりを書きます。

もともとの動機

気づいたら、長い文章を書く力が無くなっていました。昔は書けたのかというとそれもけっこう疑問ではあるけど、体感として「あ、文章が書けなくなっている」と去年末に感じたのはたしかでした。
幸いなことに、業務連絡的な文章を書くことは問題ないし、SNSや友人との簡単なメッセージのやりとりもさほど不自由したことはなく。つまり、情報はかけるけど、情緒が書けないのでした。

昔から、自己紹介が苦手で、今でもできれば避けたいことのひとつです。なんでみんな、あんなに自分のことについてすらすら喋れるのか。名前と出身と趣味のひとつやふたつ話して挨拶して終わり、程度じゃダメな空気にさらされるたび、ひとり気まずくなっています。

さまざまな情報が氾濫する現代では、情報自体の価値は相対的に落ちていく一方です。伝えたいことを伝えたい人に伝えるには、情報に情緒の衣をまぶさないと箸を付けてもらえない。その辺の道端に落ちている石がほんとうは千円の価値があるってことがちゃんと伝わるような、そんな文章を自在に書けるようになりたいな、という薄い願望が、毎週なにかしらの文章を書く習慣をはじめるきっかけでした。

ルール

週報を書くにあたり、以下のルールを自分に課していました。

■必ず日曜の夜に書く

2回ほど間に合わず翌日に書きましたが、サボった週はありませんでした。えらい。

■できれば1時間、長くても2時間以内に書き終える

時間制限を設けないと、延々と書き直しをしてしまう性格なので。 文章自体がおもしろくなかったり、論理が破綻しているのがわかっていもて、時間制限だし仕方ないや、の精神で三日坊主になるのを阻止。

■愚痴や悪口を書かない

ふつうの人間、表現したいことはそんなに多くなくて、それでも無理やりアウトプットをしようとすると嫌なことがあった記憶にアクセスしがちな脳の構造だと思っています。なので、強い気持ちで律しないと容易な方に逃げちゃうので、ルールとして決めていました。
どうせならポジティブなことを書きたいし、愚痴をおもしろおかしく書けるのは特殊な訓練を積まないと厳しい。

所感

書いてきた内容の8割ぐらいは、あまり納得できていない文章です。ただ、世のハウツーとして「完璧になるまで練習してから世に出ようとする」というのは失敗パターンであることはさすがにわかってきたので、これは文章力を上げるための訓練なんだ、と自分に言い聞かせて毎週"投稿"ボタンを押していました。
時間制限を設けて書いていたのも言いわけにできてよかったように思います。低いクオリティでもちゃんと継続することと、他人はそこまで見てないぞとムダな自意識を弱めることができました。
あと、週報を読んでくれた友人がたまに感想を伝えてくれるのも継続の励みになりました。今度なんか奢るね。

内容について、基本的に家に引きこもって仕事をしているので、おもしろいことはそう何度も起こりません。そうなると、すごく抽象的だったり観念的なことを書くしかないので、週報というよりかは別なジャンルでは?というものが多くなりました。
これを避けるには、日頃からメモを取るしかないと思い、なるべくネタになりそうなことを残すようにしました。ちなみにメモはObidianを使って取っています。個人的に最高のメモアプリ。*1

日々のあれこれを文章としてアウトプットするのは、頭の中から余計な記憶を捨てられるおかげか、そこそこ気分良しです。たぶんツイッターも、昔みたいに日常のつぶやきを書くだけなら同じような効果があったんだろうけど、今はそういうふうには使いづらい感じがあるのがね。

これから

半年やったんだから、残り半年もやるぞ!という気持ち。 上半期はとりあえず文章を書くことに対してののハードルを下げるぞ、という気持ちだったので、下半期はもう少し具体的に「文章力」と向き合って文章を書くようにしたいなあ。本棚に眠っている文章力本と、いまいちど向き合う時…。

そういえば、4月に友人も週報スタイルのブログ*2を書き始めてくれて、それがとても嬉しいです。
書こう、みんなも文章を。

*1:Evernoteの次のアプリとしてNotionがあまりにもしっくり来なかったんですがObsidianはジャストフィット

*2:https://sukeru-adhd.hatenablog.com/

2023-07-02

お祭り・飯

今住んでいる家の前の通りでお祭りが開かれました。コロナ禍の影響により3年ぶりの開催です。 金土日と三日間続くお祭り、家の前に無数の屋台が並んでいれば、食生活のほとんどが屋台飯になることは想像に難くありませんね。めちゃくちゃ食べた。
屋台の飯はうまい。ロケーションによるバフに加え、油と塩と肉/炭水化物に容赦ない化学調味料なんだからそりゃうまい。我こそがジャンクフードだという強い自負を感じます。マクドナルドなんて今はだいぶクリーンなフードだと言わんばかり。
そんなおいしい屋台飯ですが、子供のころにくらべて、各屋台が素材や味やサービスにかなり工夫を凝らしていると感じます。昔は量産品みたいに同じ色・同じフォントで「焼きそば」みたいな感じだったお店の外観も、まるで路面店のようにこだわったデザインと店名のところが多かった印象。そしてそういう屋台の飯は、ちゃんとおいしいんですよね。実店舗と違って食べログにレビューが残るわけでもないんだから、味なんて二の次でいいはずなのに。
他のお店と差別化するために外観に凝る、その結果お客さんが増えたから、やる気が出て味にもこだわりはじめた、みたいな感じだとハッピーエンドですね。

お祭り・あの人

屋台と人がひしめく祭りの道を歩いていると、聞き覚えのある声が聞こえた。
低くて大きな声で失敗を慰める、からっとした喋り方。輪投げの屋台。間違いない、小学生のころに地元の祭りで毎年遭遇した輪投げ屋のおっちゃんだ。踵を返して屋台の中を背伸びで覗く。60歳ぐらいの店員。あのときのおっちゃんに顔が似てるといえば似ているような…。もし同一人物だったら奇跡だな、という願望によって改変されつつあるおぼろげな記憶。昔見たときも結構な年齢だったはずだから、あれから30年近く経ったのにあんまり見た目が変わってないのは、大人の年齢をうまく判別できていない幼少時代特有の現象のせいか。

  1. 同一人物。スキンヘッドの人は年齢を特定しづらいし。
  2. 別人。子供のころ見た輪投げ屋の弟子。
  3. 吸血鬼。屋台の下なら日光のダメージが少なそう。

どれが正解でもおもしろい。祭りという非日常の世界の住人は不思議でいっぱいだから、インタビュー集があれば読んでみたいな。

2023-06-25

亡我

パズル雑誌ニコリのパズルに添えられたキャッチコピーのひとつに「遊びは自分をなくすこと」というものがあります。ぱっと見、深いことを言っているようで、どうとでも解釈できそうな、小洒落たキャッチだと思います。
自我とは自己とはみたいな深刻な話はよくわかりませんが、人間、ほかの人と関わることで相対的に「自分」を認識できる、てな感じの理屈があります。そう考えると、仕事や家庭とは違い、遊びは究極的には人目を気にしない行為なんだろうなあ、とぼんやり思いました。
遊ぶように仕事をしている、なんて言われてるタイプの人、思い返すとマイペースだったなあ。

いびつ

歪みや不足を見つけるのは、人間が得意としている認知能力のひとつです。知恵がまわる人なら、その問題を解決する手段も思いつくからヨシ直しちゃおうかという発想になりがちで、これはわりとイージー。難しいのは、致命的じゃないダメなものをあえてダメなまま放置する度量を持つこと。本質的じゃない誤字の指摘ばっかりする上司、イヤですよね。いびつなものを「正解」にするのはわかりやすいし気持ちいいから、ついついやりたくなります。
でも、母ちゃんが勝手に洗濯したジーンズは無個性な色落ちをするし、ペイントソフトの機能を使って正円で描かれたアンパンマンは子どもたちの人気を得そうなツラをしていない。江戸の庶民だってもとの濁りの田沼恋しきなんて詠んでいました。
ピサの斜塔がまっすぐになったら、終末時計が何秒か進むと思うので、そうならないように祈っています。